両親の離婚
 翌年の春、わたしが小学校の六年生になったある日、お母さんが突然、「今日の晩御飯は、外で食べよっか。」といいました。わたしの家は、それほど経済的に余裕があるとはいえなかったので、外食なんて、わたしの誕生日を除いては、めったにありませんでした。(その日は、わたしの誕生日ではありませんでしたし。)なので、わたしは直感的に「なにかあるな。」と不吉に感じたのですが、ことわることもできず、行くことになりました。そのとき、お父さんはおらず、わたしとお母さんだけでした。

 わたしとお母さんは、「ラ・トゥール」(それはわたしの誕生日のときには、必ず家族そろって行くことになっていたレストランでした。)というレストランに行きました。わたしはそこで、好物のオムライスを、お母さんはたらこスパゲティを注文したのを今でも覚えています。お母さんは、スパゲティを食べながら、いつ言い出そうかどうか迷っている様子で、そのことはわたしにひしひしとつたわってきました。

 わたしがオムライスを食べ終わったとき、お母さんが言いました。「お父さんがね、お母さんと離婚したい、と言ってるの。お父さんは、ちーちゃんよりや、わたしよりも、知らないおんなのひとのことを選んだのよ。わたしも、そんなひととは別れようと思ってるの。それでね、お母さんとしては、ちーちゃんはお母さんと一緒に暮らしてほしいんだけど、いいよね?」なんとなく予想はついていたのですが、とても悲しい気分になりました。わたしの本心としては、また以前のような三人の明るく、楽しい家庭が戻ってくることを望んでいたからです。でも、お母さんの決心は固まっていたし、お父さんに見捨てられたお母さんのことを考えると、とても嫌だ、とは言えず、「当然じゃない。」と無理に笑顔を作って、わたしなりにお母さんを励ましました。

 そのとき食べたオムライスの味は、わたしが今まで「ラ・トゥール」で食べたオムライスのなかでも最悪の味でした。

 お母さんとお父さんは、わたしが二人の言い争いを初めて見たときには、お互いがお互いの主張をまったく無視して、自分の意見だけを主張する、という最悪の状態でした。この頃になると、お父さんはあの女の人と暮らしていたし、お母さんは仕事を見つけて働き始めていました。また、財産にしても、雀の涙ほどの貯金があるだけで、あとはなにもありませんでした。お父さんは、慰謝料、そして、わたしの保育費・養育費は払うし、親権も財産権も全てお母さんに譲るから、とにかく別れてくれ、とお母さんに切り出したそうです。お母さんは、もうこの頃にはお父さんのことは吹っ切れていたので、この条件を飲んだそうです。わたしは、このふたりの交渉に、まったくわたしの意見が無視されていることに、とても悲しくなりました。本当に、二人がわたしのことを考えてくれているのならば、事前に、わたしに一言ぐらい相談してくれてもよいはずです。さらに、お父さんがわたしの親権をあっさりと手放したことにも、がっかりしました。お父さんはわたしよりもあの女の人のことをとったんだ、、、と。

 どうせなら、もっと争ってくれてもよかったのに。
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